朝から少し曇っていた。雨になるほどではないが、晴れる気もなさそうな空である。こういう日は、古い皿の白がよく見える。光が強すぎると、ものはかえって愛想を失う。
市の入口には、まだ畳みきらない段ボールと、湯気の立つ紙コップと、どこから来たのか分からない木箱が並んでいた。人はそれぞれ、何かを探している顔をしている。探しているものが分かっている人もいれば、見つけてからそれを探していたことに気づく人もいる。
私は、骨董市ではいつも少し歩調が遅くなる。急いで見たものは、たいてい後で思い出せない。店の人の手、布の上に置かれた湯呑みの影、値札の紙の折れ方。そういう役に立たないところから、なぜか品物の気配が伝わってくる。
箱の底にあった小皿
その小皿は、立派な台の上にはなかった。箱の底で、五枚ほど重ねられていた。縁に小さな欠けがあり、染付の線も、少し眠たげである。名のある窯のものかと問われれば、首を傾げるほかない。けれど、皿の中央に描かれた草のようなものが、妙にのんきでよかった。
値札はついていない。店主は古い外套を着て、椅子に浅く腰をかけていた。こちらが皿を手に取ると、見ていないようで、ちゃんと見ている。
店主はそう言った。
「揃いではないんですか」
「揃いだったら、こんなところにいません」
なるほどと思った。揃いでないから、ここにいる。ここにいるから、こちらの手に乗る。ものにも、人にも、そういう都合がある。
掘り出し物という言葉の軽さ
掘り出し物という言葉は、少し軽い。安く買って得をした、という顔をしている。だが本当のところ、骨董市で拾うものは得ばかりではない。欠けもある。汚れもある。何に使うのか分からないものも多い。
それでも、なぜか気になるものがある。家へ帰って、水でそっと洗い、布巾の上に伏せておく。乾いたころにもう一度見ると、市で見た時より少し静かになっている。その静けさに、ようやく買った理由が追いついてくる。
骨董市で上手に買う人は、安いものを見つける人ではないように思う。自分の暮らしに入ってきても、無理をしないものを見つける人である。高すぎる器は、家に帰ると急に威張る。弱すぎる器は、棚の隅で忘れられる。その中間に、毎日使っても少し楽しいものがある。
店主とのやりとり
私は小皿をもう一度返し、欠けを見た。店主は、欠けてますね、と先に言った。こちらが聞くより早かったので、かえって信用できた。
「直すほどではありませんか」
「直したら、直したぶんだけ皿が恐縮しますよ。これはこのまま使う皿です」
その言い方がおもしろかった。皿が恐縮する。人間のほうが、ものに気を遣わせてはいけないらしい。
値段は、昼食を少し控えれば済むくらいであった。私は買うことにした。包み紙は古新聞で、輪ゴムは少し弱っていた。店主は最後に、熱いものは載せないほうがいい、とだけ言った。売り文句としては地味である。しかし、こういう地味な忠告は、長く残る。
店を離れてから、もう一度振り返ると、店主は別の客と話していた。客は壺を持ち上げ、店主は首をかしげている。市の中では、そういう短い相談があちこちで起きている。どれも大げさではない。だが、ものが人の手から手へ移る時には、必ず小さな物語が挟まる。
帰ってから分かること
帰りの電車で、包みの中の小皿は膝の上にあった。紙の下で音も立てずにいる。高いものではない。由緒も分からない。箱もない。人に見せて驚かれる品でもない。
それでも、夕方に枝豆を少し載せてみると、皿は急に自分の場所を得たように見えた。草のような染付は、枝豆の緑とよく合った。欠けは縁のところで黙っていた。
骨董市の掘り出し物とは、たぶん、誰かに説明して分かってもらうものではない。店主の短い言葉と、曇った朝と、古新聞の匂いと、帰ってから載せた枝豆とが、少しずつ重なって、ようやく自分のものになる。
翌朝、私はその皿を食器棚のいちばん手前に置いた。高い器ほど奥にしまわれることがある。安い器ほど、毎日よく働くことがある。どちらが幸福かは、器に聞かなければ分からない。
ものを買ったのか、時間を持ち帰ったのか
数日たつと、皿はもう珍しいものではなくなった。薬味を載せ、梅干しを載せ、時には鍵を置かれた。骨董という言葉から想像するほど、ありがたがられてはいない。それがよかった。
古いものは、飾るだけでは少し寂しい。使われると、また汚れる。欠けることもある。けれど、使われないまま丁重にしまわれるより、毎朝の食卓で何かを少し受け止めているほうが、その皿らしい気がした。
あの日の店主の顔は、もうはっきり思い出せない。外套の色も、紙コップの中身も、たぶん曖昧である。ただ、「皿が恐縮しますよ」という言葉だけが残っている。骨董市で本当に持ち帰るのは、品物だけではない。ひとこと、天気、手ざわり、少し迷った時間。そういうものまで包み紙に入っている。